西洋占星術の歴史 4



歴史 2 歴史上の登場人物

● 歴史上には多くの西洋占星術師が登場します。本を書いた事の無い優れた西洋占星術師もいたことでしょう。しかしながら、それらの人々の名前は残っていません。知りえる範囲でしかありませんが、占星術師の書いたテキストに登場しながら、既にその人の本が残っていないこともあります。『誰々がこう書いている・・・』 と引用の形で書かれていても、その原本が残っていないなんて枚挙にいとまがありません。

 

それでは、何人かの歴史的な登場人物をご紹介しましょう。

 


エジプトのファラオ(ネフェプソ)と、聖職者(ペトシリス)

● 西暦以前に生きていたであろう二人の人物です。時に同一に扱われる事もありましたから、同一人物だと思われていましたが、どうも違うようです。

 

彼らは西洋占星術の世界に足跡を残してはいるものの、著作物に付いては断片が残されているだけで全体像は残っていません。ようやく一部分を垣間見ることができるだけです

 

それほど頻繁ではない登場によって、彼らによって書かれたとされる文献類が存在しますが、憶測の域を出ていないのは事実です。それでも、西洋占星術の高い技術が次に登場するドロセウスに突然始まるわけではありませんから、ドロセウス(西暦1世紀)以前から、西洋占星術の技術が存在していたことは確かです。それらがどういうものだったのかは、とても興味をそそられます。

  

ヴィチアス・バレンス(西暦2世紀)は、彼らの本を参照して本の中に残しています。クラウディウス・プトレマイオス(西暦2世紀)も、たぶん参照していたであろうことは、寿命の計算方法の部分で名指しはしていないものの、同じような技術[あくまでも、同じようなであり、同じではありません]を引っ張ってきていることから判断されます。


シドンのドロセウス

● カーメン・アストロロギカムという本を書いています。デイビッド・ピングリーよって英訳されて出版されています。その本の始まりのページは、161pとなっています。ピングリーは2005年に亡くなっているので、彼の研究がどれほど進んでいたのか、160pまでのものが何時か遺稿として出版されるのかどうか、待たれます。このHPを書いている時点から後(2014年)には、出版されているかもしれません。

 

それをドロセウスは詩的な形式でカーメン・アストロロギカムに残していて、ネイタルとイレクションの本としてまとめられています。それは一般に 『占星術の詩』(Astrological Poem) として知られています。イレクションの本を書いているという事は、その対極にホラリー占星術が在ったに違いありません。何故なら、ホラリーの技術があってこそ、イレクションの技術が成り立つからです。

 


ヴェッテウス・バレンス

● プトレマイオスと同時期にエジプトのアレクサンドリアに住んでいて、互いには面識が無かったようです。一説には、旅行中にアレクサンドリアに立ち寄っただけだったともあります。西洋占星術のネイタルの本(アンソロジー[詩選集])を書いています。マーク・ライリーという翻訳者によって訳されたものが、PDFファイルとして完全な形でウェブ上で閲覧可能です。ダウンロードも可能です。直リンクはこちらです。クリス・ブレナン氏によって、マーク・ライリー氏のものを尊重しつつ、チャートが付け加えられて2022年に発刊されました。

 

  2つ、又は、3つの惑星による判断が出ていて、初期の西洋占星術にも、このような解釈があったのかと驚かされます。もちろん、軽く書かれているだけで、信用は置けません。リセプションを含ませて解釈されてこそ、正されるのだと思います。

 


プトレマイオス

● 彼は西洋占星術を専門に行っていたわけではありません。学者でした。しかしながら、とても影響力のある本 『テトラビブロス』 という西洋占星術の本を書きました。『アルマゲスト』という天動説の本の方が有名で、コペルニクスが地動説を説くまでは、キリスト教社会ではこの本に書かれた世界観が宗教的であるし天文学的であると思われていました。もちろん、天動説を彼が提唱したわけではなく、その本は、当時行われていた2世紀頃の地学の集大成でした。

 

  一方、『テトラビブロス』 はその後のアラビア占星術に影響を与えていきます。また、書かれている西洋占星術の法則も、全てではありませんが、取り入れられていきました。一番卑近な例は、春分点を西洋占星術上の原点としてしまったことです。