古典的な西洋占星術と、モダンな西洋占星術の大きな違いは、視点の違いです。
「私から見た自分を観察するものがチャートである」、この見方はモダンな西洋占星術です。客観的ではなく、どちらかというと、自分自身を見つめ、自分自身の欠点を克服し成長しようとする捉え方です。
対する古典的な西洋占星術の視点は、「他からどう見られているのか」、「社会的にどう自分は捉えられているのか」。社会というよりも、「神の視点から見て、私はどう見えるか」にウェイトが掛かっています。
これら2つの物の見方は、ものすごく違っています。「私はこんな人」(モダン)と、考えても、「世間はあなたを、そのような人だと見ていますョ」(古典)となります。
● 「星を読むことができるとしたら、それを書いたのは誰?」
占星術の命題の一つに
「もし、占星術が言語であって、私達が星を読み解くことができるの
ならば、誰が、あるいは何が、それを書いているのでしょう?」
というものがあります。
それに対する答えは幾つか想定されます。それら、仮定されるどのような答えであっても、星々の位置が何か意味の有ることを語っていると考えることは、この宇宙の物理的な法則以外の何らかの法則性を認めることになります。
古くは、神の存在そのものを素直に信じていた時代もありました。マルシリオ・フィチーノ 風に言うならば、波を見ながら風を把握するように、光を観察しながら神の叡知を感得していたのです。
占星術は、星の位置を書き込む誰か、あるいは何らかの存在を認めなければ成り立たない芸術です。「天にあるがごとく、地上にも」と言われ、また、「星座や星々は、創造主の使う道具である」と語り継がれてきた背景に、無くてはならない考え方です。
● 「星を読むことができるとしたら、それを書いたのは誰?」
この命題にYesの答えを与えるとすれば、それは、私たちに、私たち以外の生命体を予想させます。占星術に与えられたこの命題を突き詰めていくと、西洋占星術が明らかに宗教性を備えていることが理解されてきます。しかし、西洋占星術が特定の信仰心を人々に押し付けることもありませんし、すでに持っている信仰を放棄させることもありません。
このことは同時に、普遍的な宗教観か、あるいは倫理観を備えていることを彷彿とさせます。信仰心を持たない人々にとっては、西洋占星術を学ぶことそれ自体が、大宇宙生命体は存在するのか、あるいは、神は存在するのかという大きな命題に取り組むことにもなるはずです。
西洋占星術が上記の命題の答えを持っているのかどうかを考察する前に、しばらく信仰というものに目を向けてみましょう。信仰、あるいは宗教、又、魔術等の言葉の定義を、仮にでもしておかないと、この議論はあらぬ方向に行くかもしれません。
● 星を読み解くことを行為として行うなら、占星術を通じて私たちは、知らず知らずに神とコンタクトを取ることになるのでしょうか?
あるいは、神以外の何か特別の存在(例えば悪魔のようなもの)と対話をしようと試みているのでしょうか。星の言葉を読み解くという行為と、神々あるいは悪霊とコンタクトを取るという行為とは、他者を想定するというどこか共通性があります。それらとコンタクトを取るという行為が、直ぐさま宗教に直結することにはないにしろ、もしそうであれば、占星術はかなり宗教性、あるいは魔術性を帯びてきます。
多くの宗教にはシャーマンに代表されるように、神々とコンタクトを取るという行為が内在します。まったくそれらを行わないように見える禅宗のような形態も存在しますが、それは稀なものでしょう。つまり、少なくとも、神と、あるいは悪霊とコンタクトを取るという行為が宗教には含まれます。
宗教には、もう一つ祈るという行為が必ず備わっています。祈るという行為は、手を合わせるという自然な形式から徐々に儀式的なものに組み上がっていきます。もっとも、信仰が宗教になる段階で、自分達の求める価値観に従うようになっていくものですから、信仰心と宗教には少し隔たりがあることに間違いは無いでしょう。
「私は祈っていないから、信仰を求めているわけではない!」
モダンな占星術の基礎を築いたアラン・レオが傾倒した、神智学協会の創設者の一人であるヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー夫人の提唱したものは、信仰心を基にして万人が尊敬しあえる世の中です。彼女の残した「神は法則である」という概念は、とても幅広い宗教性を認める言葉です。神智学協会の考え方によれば、よしんば信仰心を持っていないにしろ、何ら咎められるべきものではありません。
宗教性の定義は捉えどころがないことは明らかですが、ここまで考えてきたことをベースに、更に先に掲げた占星術に対する命題に関する考察を前に進めるために、ここで語る宗教性という言葉の定義をまとめておく必要があります。宗教性という言葉の正確な定義はとても難しいことだと思います。悪霊とコンタクトを取らない事までも含めると、とても膨大な定義が要りそうですが、あくまでも、これまでに述べた観点から観察しての一応の宗教性の定義です。
[1] 神(あるいは神々)と、何らかのコンタクトを取る(取ったことがある教祖等がいた)。
[2] 祈るという行為、あるいはそれに準じた行為[儀式や、礼拝の手順]が備わっている 。
「星の言葉を言語として読み解く行為をする」ということは、語っている他者を想定していますから、明らかに[1]の宗教性に類似した行為の一つです。 他者を想定するとか、形を整わせることがなくても、心の中で歓びを感ずるとか、教えてくれた対象に感謝するとか、ありがとうと言う気持ちを持つだけでも[2]の形態の一つに入ります。
このような観点から、西洋占星術が宗教性を備えていることは明らかなのです。しかし、宗教性を備えていたとしても、それは即、宗教ではありません。宗教となるには、更に、組織性、教える人(教主)、教義等の宗教が持つであろう必要事項の考察もしていかなくてはいけません。実占の場で鑑定を行っている人々は、占星術が持つ宗教性なぞ考えたこともないのが本当の所でしょう。でも、悪霊や悪魔が答えを教えてくれているとなると大問題になります。悪霊や悪魔が教えているのかも… という考察をここでは行いません。更に、ややこしくなります。
占星術そのものは、宗教ではないと思います。それでも、かなり信仰心を呼び覚ます行為であることは間違いありません。それを、私は、決して悪いことではないと考えています。占星術のように、一つの学習が必然的に「ありがとう」という感謝の気持ちを抱かせる学びは、それほどに多くないと思いますし、神々から絶えず示唆を受けているという気持ちを抱かせるものも、これまた少ないと思います。
占星術は、神の言葉を読み解くという行為と、祈るという行為が揃ってしまうために、極めて宗教性の高い行為です。この二つ(祈ることと神の言葉を仲立ちすること)は、占星術の中で、とても手を握り易い距離にある事柄だと見つけることができました。そして、占星術も宗教も同じような大きな命題、「私の人生の意味は何ですか?」 に直面していることを考えると、やはり両者は類似のスタンスに立っているものだと言えます。
学んでいく途上で一見、宗教と見まがうかもしれないものを含んでいるのは、地球中心の占星術の天球に始めから神々の位置が想定されていて、占星術がもともと真理を把握することを目指した学問として成立してきたことを物語っています。また、占星術の法則は論理的に出来上がっていますが、それは、現代の科学とは明らかに様相を異にしています。では、その法則の違いとは、どのようなものなのでしょうか。
● ここでは、西洋占星術を際立たせるために、因果関係と対応関係を区分して考えを先に進めます。因果関係と言っても、仏教的な概念で使っているわけではありません。ここでの定義です。少し乱暴な区分ですが、この考え方を推し進めることによって占星術がこれまでよりも明確になってくると考えられますので、因果関係と対応関係について述べてから、古典的な科学と現代の科学の「科学」という言葉の定義を見ていきます。
養老猛司氏(東京大学の脳生理学者)は、因果関係と対応関係を混同しないことの重要性について次のように述べています。養老猛司氏の思考方法のある区分は、下記のようなものです。 「Aという事象が成立した後に、Bという事象が成立する。」 という観測データが多く得られた場合、Aを条件として発動するメカニズムが機能して、Bという結果が形成されると考えるのが、因果関係的思考だとします。こちらが一般的に今日、科学とされるものです。現代の科学は因果関係を基にする学問です。
それに対して、 「Aという事象が成立した後に、Bという事象が成立する。」 という観測データが多く得られる場合、AとBには対応関係があるので、Aが存在すればBが存在することを推測出来ると考えるのが、対応関係的思考です。どちらも、同じ文言ですけれども、違いは、Aの事象があればBが発動する、vs. Aを条件としてBが成立する、といった違いがあります。
因果関係的なものは、例えば、水を電気分解すれば、酸素と水素が得られるといったものです。
対応関係的なものは、早起きは三文の得といった類の、人類の成功法則のようなものです。常に存在するとは限らないかもしれませんが、推測はできます。
二つの思考方法で区分すると、現代の西洋占星術は対応関係に基づいて推論をする学問となります。人の生き方についても、「夫婦は一対の反射鏡」であるとか、「物はそれを感謝する人に集まる」とか、あるいは「今の自分を変えれば、未来は変わる」などは、この対応関係に基づく推論の方が多く為されています。占星術とは、対応関係を土台とする精妙な感覚的学術(アート)であって、因果関係を土台とする緻密な数学的学術(科学)ではありません。 ここで申し添えておかなければならないことは、感覚的学術(アート)で述べる感覚について、第六感と呼ばれるものが入るわけではなく、一般的な五感までの感覚として制限しておきたく思います。論理的な思考をしていくと、ある段階で論理を超えた答えが飛び込んでくる場合もあります。その場合でも、物理学者が突然数式を夢の中で得るように、時間の経過後に論理も伴うような範疇に入るものまでの感覚のことを言います。
● 古典的な科学と、今日の科学には概念上の違いが歴然として存在しています。古代、「科学」は、対応関係にも因果関係にも用いられた言葉でした。17世紀頃まで占星術は(古典的な意味で)、科学として語られていました。急に暖かくなってきたから雨が降るであろうというのも科学で、木星が月と天頂でコンジャンクションするから雨が降るであろうというのも科学でした。ですから、古代には、今日では全くナンセンスとしか思えないような、星を使って地震の予測をするというものも科学の範疇に入るものでした。
17世紀以前、ヨーロッパでは医学も同じ要素(エレメント )で語られており、医術的な事柄も占星術と同じ科学の範疇に含まれていたのです。蘭学と称して江戸期の日本に入ってきた医学も、同じくヒッポクラテスの流れを汲む体液説(エレメントで語られる)に基づく医学でした。これら全ての分野は、ギリシャ哲学での同じエレメントという言葉で説明のできる、あらゆる空間で繰り広げられる事柄の一つだとしていたのです。
それに対して、ヨーロッパ中世《啓蒙運動》以降は、証明できる体系こそが科学とされ重要になっていきます。「科学」はそれ以降、対応関係に属するものを科学と区分するようになりました。
西洋占星術は、現代の科学とは違っていて、対応関係をひも解く学問です。天の星々の位置と、我々の社会生活との間に物理的な因果関係はありません。占星術では、太陽の位置と季節の変化に因果関係があったとしても、それも一つの対応関係として捉えるものです。例えば、水星が逆行しているから書類上の間違いが増えるというような事柄に、物理的な関係は一切ありません。間違いは常に起きていますが、水星が逆行の時にはより書類上の間違いに注意が向くというだけです。また、太陽が獅子に来れば熱いのかというと、南半球では決してそうはなりません。
● 科学的態度に付いても、一言書き添えておきたく思います。科学的態度というのは論理的な思考の積み重ねと言い換えられ、科学的態度そのものは科学でありません。今日の科学というものに目を移すと、理論物理学のように、科学的な観測データから得られる結果に基づき推論を重ねること、その推論から宇宙の構成とはこうであるかも知れないと考えることも科学となります。その理論を組み立てる過程や、数学的な論考をする中で科学的態度が取られるわけです。その他の概念上の捉え方もあるかもしれませんが、これが、今日の科学的態度とされるものです。
この延長線上に、湯川秀樹博士が研究していた、「素空間理論」というものもあるそうです。それは、何もない空間の背後にある「密なる空間の存在」が有り得ることになるそうです。
しかしながら、西洋占星術的な感覚というものは、論理で説明できない面も備えています。そうだとしても、先に述べたような科学的態度で臨んでいただきたく思います。占星術の論理で、とっぴな理論を展開しても良いというのは科学的な態度とは言えません。過去に論証された方法から、あるいは法則から、それらを踏まえて新たな推論を行うことこそが科学的態度と呼べるものです。そうであれば古典的な占星学を学ぶことは、その後の推論を行う上で決して間違った態度にはならないはずです。それでこそ、科学ではありませんが、科学的な態度で取り組んでいるといえるでしょう。
● 従って今日、科学と占星術は明確に区分しておかなければいけません。
占星術の論理を使いながら判断をする道程で、各種の推論を科学的態度で行なったとしても、科学と占星術には明確な区別があります。占星術は今日の科学ではありません。もしも占星術が科学であるとするならば、その理論によって惑星の動きの様々な領域を説明できるはずです。また、重力の理論や、素空間の理論も説明できるはずです。しかし、占星術ではそれらを行っていません。
かつて惑星のロープ理論というものが提唱されたことがあります。目に見えない、いまだ発見されていない物理的な惑星の力が、宇宙を、そして我々を、地上の動植物を操っているというものです。そういうものは存在しません。また、占星術は未だに地球を中心とした天球を使い続けていますから、物理学に参入するのは土台から無理なのです。占星術は対応関係を紐解く学問です。
ネイタル・リーディングの本 | 推薦図書 『星の階梯シリーズ』